2018年07月23日

松永久秀とは? 数々の計略を成功させた智将

松永.PNG


松永久秀(まつながひさひで)は1510年に生まれたとされているが、正確ではない。

裏切り、暗殺など悪行の限りを尽くすが、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られているという一言ではくくれない人物である。

そして、1577年10月10日、日本初の壮絶な爆死を遂げた。

また、日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた武将である。

これぞ男道!宝物であった茶釜に火薬を詰めて68歳で爆死!


織田信長に茶釜を譲れば許すといわれたが久秀は頑固で譲らなかった。
信長に攻撃を受けたため爆死した。

ゲームではいかにも悪人の顔です。

(1534年)頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。

永禄4年(1561年)11月には三好義興と共に六角義賢と京都付近で戦う!

このころから畿内の覇権をめざしていたという。


久秀の最期

「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」

この言葉は有名である。

信長にはこの茶釜はどうしても渡したくなかったのだろう。
天国に持っていって修復する予定だったのかもしれない。

それだけ有名な茶人でもあったのである。

67歳で自害するまで壮健であり、自らが相伝した性交規範を遵守していたと考えられる。
久秀は松虫を飼っていたが、それを色々工夫して育てたら3年も生きたため「松虫でも飼い方次第でこんなにも長生きする。
人間は日々養生する事で長い命を得ること間違いない」と述べて養生を心掛けたという。



posted by 織田信長 at 23:35| 東京 ☀| Comment(0) | 信長の野望烈風伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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