2018年07月03日

列伝 豊臣秀吉

豊臣秀吉 1537~1598


豊臣秀吉は農民の家に生まれたが最後は天下人になったという出世頭である。
父・木下弥右衛門は農民だったとされている。

生年については、従来は1536年と言われていたが、最近で1537年説が有力となっている。


はじめは木下藤吉郎と名乗り今川家の陪々臣になった。

1554年頃から織田信長に認められて織田信長に仕えるようになる。

清洲城の普請(改修)奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。

信長の草履を体の中で温めたエピソードも有名である。

1570年、朝倉義景の城を攻略最中、浅井長政が裏切ったとの知らせが入る。

このとき秀吉は殿軍を務め見事織田信長を守った。

1582年、秀吉は毛利軍と戦っていた。

だが、本能寺で織田信長が討たれたとの知らせが入ると即毛利と和睦して京に引き返した。(中国大返し)

和睦条件は清水宗治切腹。

明智光秀との戦いでは池田恒興や丹羽長秀、中川清秀や高山右近などが秀吉を支持したため、明智光秀は敗れる。(山崎の合戦)

その後明智光秀は落ち武者狩りに遭い討ち死にする。

1582年6月27日、清須会議が開かれる。

織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。

ここから柴田勝家との争いが始まる。



また、柴田勝家の方が先輩にあたるため、柴田勝家としては後輩に先を越されるのは悔しいだろう。

そして、賤ケ岳の合戦で見事柴田勝家軍を破る。

浅井三姉妹の母、お市の方も自害。


1583年、石山本願寺の跡地に大阪城を築く。

小牧・長久手の戦いで徳川家康と争うが、引き分けに終わった。

また、朝廷にも接近するようになる。

1584年11月21日、従三位権大納言に叙任される。
さらに翌年の1585年3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている

九州平定で大友宗麟や島津義久などを降伏させる。

残る敵は小田原城を持つ北条氏政のみとなった。

この北条は兵糧攻めで降伏させる。


秀吉は世界に目を向けていた。

まずは朝鮮をということで朝鮮出兵を実行する。
しかし、最後は撤退を強いられた。

1598年、醍醐の花見で秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ。

自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。

8月18日、伏見城で死去。 享年62


posted by 織田信長 at 01:54| 東京 ☀| Comment(0) | 武将列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

列伝 織田信長

織田信長 1534~1582



織田信長は古渡城主、織田信秀の嫡男として1534年に生まれる。

最初はうつけ者と呼ばれていたが、家督争いに勝ち、さらに桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破る。

この時から信長のことをうつけ者と呼ぶ人はほとんどいなくなった。

清州同盟で徳川家康と同盟を結び、東の憂いを無くす。

足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。

後に将軍足利義昭を追放してしまう。

室町幕府がこの時織田信長によって滅ぼされる。

また、長篠の戦いでは大量の鉄砲を駆使して最強武田騎馬軍団に勝利する。

この時、武田家は衰退する。

長島一向一揆の制圧や浅井長政・朝倉義景などの宿敵も撃破し、天下に名乗りを上げる。

その象徴として安土城を築く。

これで織田信長が天下を取るかと思われた。

しかし、信長は秀吉の中国攻めの援軍に行く途中、本能寺で休息をとっていたところを家臣の明智光秀が襲う。
50人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、最初は信長自身も槍を手に取り戦った。

しかし明智軍の圧倒的多数にはかなわず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49

森蘭丸も自害。






posted by 織田信長 at 01:04| 東京 ☀| Comment(1) | 武将列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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